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第18回カフェカブミーティングin青山 バイクフォーラム


本稿では、2014年11月2日に開催したバイクフォーラムを、概略してお伝えします。

MC  ホンダスマイル 羽場佑里子さん(以下MC)
ゲスト 宮智英之助氏(以下敬称略) 中部博氏(以下敬称略)

MC 皆様こんにちは!
   本日は「第18回カフェカブミーティングin青山」にご参加頂きまして、誠にありがとうございます!
   只今より「バイクフォーラム」を開催致します。
   スーパーカブは、56周年を迎えた今年、累計生産9000万台を超えました。
   日頃からスーパーカブをご愛用の皆様に、お礼申しあげます。
   ありがとうございます!
   さて、今回の「バイクフォーラム」は、
   スーパーカブのデザインを担当された、元本田技術研究所主任研究員の宮智英之助さんと、
   作家でモータージャーナリストの中部博さんをゲストにお迎えして、お話を伺って参ります。
   私 本日の司会を担当させて頂きます、ホンダスマイルの羽場佑里子と申します。
   頑張って務めますので よろしくお願いします!
   それでは、早速ゲストの皆様にご登場頂きましょう。
   どうぞ、ステージへお越しください。

(拍手の中、上手より宮智氏、中部氏が登場 客席に挨拶して、3者 着席)

MC 本日はようこそお越しくださいました。 よろしくお願いいたします。
   では、本日のゲストの宮智英之助さんのプロフィールから、ご紹介させて頂きます。
   宮智さんは、千葉大学工業デザイン科を卒業されて、
   1960年に本田技研工業に工業デザイナーとして入社され、造形室に配属されましたが、
   ホンダの創業以来 5人目のデザイナーだったそうです。
   入社直後に本田技術研究所が創立され、そこへ造形室ごと移籍されました。
   CB72や汎用のデザインを経て、スーパーカブC50やN360、S800のデザインを手掛けられ、
   ダックスやリトルホンダのデザインを経て、1971年にスーパーカブのモデルチェンジを行われました。
   その後、東南アジアのカブやブラジルのCG125をデザインされ、
   ホンダ・ブラジル研究所の所長を務められ、1996年に退職されました。
   続きまして、中部博さんのプロフィールをご紹介させて頂きます。
   中部さんは、週刊誌記者やNHK教育テレビ「若い広場」の司会者等を経て、ジャーナリストとして活躍され、
   若者の思いやF1を取材執筆してベストセラーを出されました。
   また、遺伝子治療や本田宗一郎の伝記等を執筆され、ラジオのパーソナリティ―を務められる等、
   幅広いジャンルで活躍されています。
   今年も、中年ライダーの写真単行本「風をあつめて、ふたたび。」を出されています。

中部 (自書をかざして)これです! 皆 買ってください!

MC それでは、お話を伺って参ります。
   スーパーカブは、今年5月に特許庁から、工業製品では初めて「立体商標登録」が認められました。
   「立体商標登録」とは、形だけで その商品だと特定出来ると、特許庁が認定するものです。
   例えば、コカコーラのボトルや不二家のペコちゃん等、
   シルエットを見ただけで それだと解る立体デザインということです。
   「商標登録」や「実用新案特許」は、権利の有効期間が20年ですが、「立体商標登録」は無期限です。
   従って長期間、デザインを変更しないことが条件になり、デザインを変えた時点で権利が失われます。
   普通 工業製品は、常にモデルチェンジが求められので、
   「立体商標登録」として認定を得ることは皆無だったのです。
   スーパーカブは、56年間 基本デザインを変えずに生産を続けていることが、特許庁に認められました。
   これは、56年前のデザインコンセプトが、極めて優れていたことを証明していると思います。

中部 カブのデザインだって常に変わっているんだよ。 だけどシルエットが変わらないということだね。

宮智 スーパーカブのデザインコンセプトは、木村譲三郎さんが苦労して考え出されたものです。
   木村さんは、残念なことに今年の2月に急逝されましたので、今日は木村さんを偲んで話したいと思います。
   僕は木村さんに声を掛けられてホンダに入社することになりましたし、大変な恩義があります。
   木村さんは公明正大な方で、彼が居なかったらホンダのデザインの基礎は築かれなかったでしょう。

   

中部 宮智さんがホンダに入社された頃のことを伺いたいですね。

宮智 入社して1週間経った頃、初めてオヤジさん(本田宗一郎氏)が現れて、
   「お前、学生時代の半分は遊んでいたようなものだ」と決め付けられました。
   僕は学生時代に、幾つものデザインコンペに入賞して天狗になっていたから、悔しくて腹が立ちました。

中部 宗一郎さんは怖かったね。

宮智 いや、いつもニコニコして難しい言葉を使わないから、そういう意味では気が楽でした。

中部 そうなんだよ、宗一郎さんは深い内容を普通の言葉で話すからね。

MC ところで、スーパーカブのデザインコンセプトは、どの様にして決められたのですか?

中部 それは木村さんが、宗一郎さんから言われた「手の内に入る」デザインを形にしたということだよ。

宮智 僕は木村さんから「手の内に入る」というのを伝えられました。
   木村さんは後に「大衆の使えるサイズに適合させる」ことだと説明されましたが、
   これは現在でもグローバルに通用するデザインコンセプトということになります。
   「手の内に入る」というのは 解るようで解り難い表現で、木村さんは理解するのに随分 考えたようです。
   オヤジさんの故郷の遠州弁じゃないかと思うのですが、
   僕は「手の内に入れて可愛がりたくなるようなバイクを作れ」と解釈しました。
   単なる軽快感だけではなく、可愛らしさ親しみ易さも求めた言葉だと思います。

   

中部 N360は、宗一郎さんに言われて金型を作り直したそうだね?

宮智 いや そうではなくて、N360の時は プレス金型を作る段になって、
   最終決定したモデルを金型工場の定盤に乗せたところで、
   オヤジさんが「屋根が重たい感じがするから直そうや」と言い出して、作り直したのです。
   狭い造形室では気付かないアンバランスが、広い所に出して見るとハッキリ解ったということで、
   その後 造形室は拡張されましたが、オヤジさんから「絶対に妥協しない」精神を教えられました。
   おかげで金型工場長からこっぴどく怒られましたが…。
   僕はN360で、初めてデザインプロジェクトリーダーに抜擢され、
   当時 販売台数トップのスバル360を凌駕するデザインが求められました。

中部 スバル360は宮智さんの大学の大先輩がデザインしたんだ。
   ドイツのバウハウスを取り入れた千葉大のデザインには、ヒトの温もりを表現するという共通性があるね。

宮智 まあ、出身校の教育がデザイナーに共通性を与えるとは思いませんが、
   スバル360をデザインした佐々木達三さんの後輩が、スーパーカブC100をデザインした木村さんで、
   つまり佐々木さんと木村さんは 僕の先輩ということです。

中部 人から聞いたけど、宮智さんがよく口にするという「こくのあるデザイン」とは、どういうことなの?

宮智 「こくのあるデザイン」とは、さらっと言うならば「飽きの来ないデザイン」です。
   オヤジさんは「お前にお客さんの顔が見えるか?」と言うのですよ。
   「思わず買いたくなり、買ったら大事にしたくなるデザイン」と、言うのは簡単ですが、
   いざデザインするとなると 容易なことではありません。
   それで、休日に外車のディーラーを回り、「これ」というデザインのクルマを撫で回して、
   その曲線と曲面を手の平の感触に記憶して クレイモデルに再現する、ということを繰り返しました。
   工業製品と言えども、人間の感性を掴む 曲面と曲線の絶妙な構成が大切です。
   見た目の大胆さや派手さだけのデザインでは、直ぐに飽きられてしまいます。

   

MC お話をスーパーカブに戻させて頂きますが、
   宮智さんは1966年に、スーパーカブの1回目のデザイン変更を手掛けられましたね?

   

   

宮智 C100が大ヒットすると、他メーカーからスーパーカブを真似た競合モデルが出て来て、
   これ等は2サイクルエンジンで、馬力があって安いこともあって、販売競争が激化するようになりました。
   これに対抗する為に、エンジンのOHC化が進められるようになり、
   併せてデザインもモダナイズすることになりました。
   主な変更箇所としては、新たに設けられた基準に合わせて、灯火器類を大きくしました。
   また、C100ではフロントフォークとレッグシールドに隙間がありましたが、
   これを埋めてスッキリとモダンなデザインにしました。
   この1回目のデザイン変更は、大塚さんがデザインプロジェクトリーダーを務められ、
   僕がデザインしたのはフロント周りだけです。
   ヘッドライトを大型化に併せてハンドルに移したのは、
   1962年のM85スクーター(2代目ジュノオ)のデザインを応用したものです。

   

MC そして、1971年に2回目のデザイン変更をされましたね?

宮智 この時は、僕がデザインプロジェクトリーダーを仰せ付かりましたが、
   よく売れた商品のモデルチェンジは とても難しいものです。
   オヤジさんはデザインにうるさく なかなか「良し」と言わないので、作っては壊し 作っては壊しして、
   少しずつ解って来て 一人前のデザイナーになるのですが…。

   

中部 宗一郎さんは 解らないとブン殴るんだよ。

宮智 よく言われる そういうことはなかったですが、
   僕はオヤジさんと違う考えを主張したら 殴られたことがありました。
   それでも、めげずにもう一度主張したら、あっさり聞き入れて貰えました。

中部 そうなの? そうか、宗一郎さんは人の気持ちが解ってたから、感情的に殴ったことは一度もないね。

宮智 昔は 父親や先生が殴るのが当たり前でしたから…オヤジさんも そういう気持ちだったのでしょう。
   まあ、今の若い人達にやっちゃあ、ダメでしょうね。
   2回目のデザイン変更は、世界中のマーケットで販売競争が激化して、
   現地のユーザーやディーラーからの強い要望が寄せられたのに対応するものでした。
   スーパーカブが大ヒットしたからと言って、ホンダは決して悠々と商売していたのではありません。
   国内でも海外でも、ナンバーワンのモーターサイクルメーカーで在り続けることは、
   それは大変で 死に物狂いの努力を要するものなのです。

中部 あの頃は営業面で 藤沢さんが頑張ったんだよ。

宮智 造形室でデザインが決まると オヤジさんが「副社長(藤沢武夫氏)を呼んでいいか?」と聞くのですが、
   オヤジさんにとって、オジさん(藤沢氏)はお客様の代表ですから、
   オヤジさんとオジさんの両方が納得して、初めて量産モデルが決定するのです。
   オジさんは、デザインについては何も言わないのですが、納得出来ないと黙ってしまい、
   オヤジさんはそれが解るので ふたりだけ別の部屋に移って話し合いになり、
   戻って来て「まだダメか…ようし もうひと頑張りしようや!」と自らと僕達を激励するのでした。
   オヤジさん自身も 白い作業服の袖をクレイ塗れにする程、苦労しました。
   僕のグループに新進気鋭のデザイナーの森岡實さんが加わっており、
   優秀なデザイナーの彼が流れるような一体型ボディをデザインしてくれました。
   彼が現在のリトルカブ迄使われている、専用のテールライトをデザインしたのです。
   僕と森岡さんは ダックスのデザインにも携わったので、インタンクへの対応はスムーズでした。
   C100ではフレームにタンクを乗せ、そのタンクに直着けしたシートに乗るという無理がありましたが、
   それもインタンクにすることで解決を図ることが出来ました。

   

MC さて、宮智さんは、1978年に東南アジアのカブをデザインされ、
   その後にはブラジルの主力モデルのCG125も手掛けられましたが、
   これ等の海外モデルについて、お話を伺いたいと思います。

宮智 その当時スーパーカブは、東南アジアでも満足して貰えると思っていましたが、
   「スーパーカブはタイのカローラ」と言われるように、家族のトランスポーターという認識なのです。

中部 東南アジアでは、カブに家族全員で 4人乗りどころか5人乗りするからね。

宮智 国内では「軽快で可愛いスーパーカブ」という認識だけれど、
   東南アジアでは「家族の生活が掛るスーパーカブ」という「重さ」があるのです。
   だから国内仕様では 需要を満たせないので、全く売れませんでした。
   タイのマーケットシェアでは、「ヤマハ、スズキ、カワサキ、おまけにホンダ」という状況でした。
   それで現地調査を行った結果、ようやく重い腰を上げて 東南アジア仕様を作ることになり、
   C700とC900をデザインしました。

中部 角っぽいデザインはジウジア―ロの真似だよ。

宮智 現地から「ジウジア―ロ・デザインにしてくれ」と強い要望があったので、そういうデザインにしました。
   このモデルが大成功を収め、ホンダがタイに大きな拠点を築く礎となりました。

中部 宣伝広告に使ったモデルが良かったんだよ。 後で副大統領夫人に収まった程の凄い美人なんだ。

宮智 CG125は、発展途上国に向けたモデルとしてデザインしました。
   ブラジルからは「もっとスポーティーに」という要望があって、それに応えたデザインで大成功しました。
   その後「女性用にもっと小さいモデルが欲しい」という要望に応えて、
   現在のビーズカブが作られるようになりました。

MC タイ・ホンダは有名ですが、ブラジルにもホンダの工場があるのですか?

宮智 ブラジル・ホンダは、アマゾン流域のマナウスに設立しました。

中部 アマゾン河にはピラニアがいて 危険な所だよ。

宮智 ジャングルを切り開いて設立したので、現地採用者が工場労働に馴染めない為に 定着率は50%以下で、
   毎朝僕が通勤する時、工場の前には補充要員の募集に長い列が出来ていました。
   それでも、工場設立から頑張った駐在員の懸命の努力で、
   やがてマナウス工場は 現地従業員との間に信頼関係を築き上げ、
   生産が軌道に乗るのと併せて 生産効率でも国際的な評価を得るようになりました。

MC 大変だったのですネ。

宮智 ホンダが海外の工場で、現地従業員と確固たる信頼関係を築いたのは、ブラジルが最初です。

MC 宮智さんは、ホンダの海外仕様モデルを手掛けられた先駆者ですが、
   グローバル・スタンダードモデルについての、ご意見を伺わせてください。

宮智 オヤジさんから「定年退職してからは『近頃の若い奴は…』等と説教するのは絶対にイカン」と
   厳命されたので、言いたい事が言えないのですが…。
   嘗て スーパーカブをアメリカに出した途端に、大きなスプロケットを着けたトレイルモデルが作られて、
   それを参考にしてハンターカブが作られました。
   また、アメリカ・ホンダの倉庫マネージャーが「GPレーサーの様な4シリンダーを作れ」と言って来たのが、
   CB750を作ることを決断させました。
   アメリカでは、キャンピングカーにトレイルバイクを積んで行き、キャンプ場に奥さんや子供を残して
   トレイルランに出掛けてしまいます。
   残された奥さんは「トレイル・ウィドウ」と呼ばれるのですが、アメリカの奥さん達は大人しくないので、
   「自分達が遊べるバイクを作れ」と強く要望され、それに応えて作ったのがダックスです。
   この様に ホンダはお客様の要望に応えて、色々なモデルを作って来ました。

   

   
中部 ユーザーの意見は大切だからね。

宮智 海外生産に於いても、駐在員と現地従業員との確固たる信頼関係で、
   国内生産に勝るとも劣らない品質の商品を作るのが、ホンダが長期に亘って培ったDNAです。
   日本のお客様は大人しいので、もっと声を大きくして ホンダに要望を伝えてください。
   ホンダには お客様の要望に応えるDNAがあります。
   スーパーカブがグローバルスタンダードになったとしても、日本のお客様の要望には必ず応える…と思います。

MC 興味深いお話が尽きませんが、そろそろ時間が無くなりました。
   最後にゲストのご両名から、会場の皆様にメッセージをお願い致します。

中部 タイで作っているホンダCBR250Rでロングツーリングしたけど、
   スーパーカブより馬力があって スーパーカブと同じフィーリングで楽しかったね。
   もう東南アジアでは、スーパーカブより大きくてスーパーカブらしいバイクが人気なんだ。
   それとホンダNM4ってのが、ハイテク満載の近未来型ビッグバイクなのに乗り易くて、
   やっぱりスーパーカブと同じフィーフィングだから、皆も大型免許を取って 乗った方がいいよ。
   詳しいことは この「風をあつめて、ふたたび。」に書いてあるから、買って読んでください!

宮智 今日はカフェカブに参加されたスーパーカブを見せて貰いましたが、
   皆様の思い入れの強さがハッキリと解り、本当に嬉しく思いました。
   カフェカブ京都も インターネットの動画を観て、物凄い盛り上がりにビックリしました。
   僕は現在、画家として色々な作品展に出品していますが、カフェカブ京都に勝る作品展は無いと思います。
   600台ものスーパーカブが集まって、1台として同じものが無いというのは、
   カフェカブは 正に皆様によるスーパーカブの偉大な作品展です。
   スーパーカブは、これからも発展して行きますが、
   それには皆様の、熱い想いを籠めた貴重なご意見を賜ることが重要です。
   皆様には、大きな声でホンダに要望を伝えてくださるよう、お願いします。
   これからも、どうかホンダを信じて応援してください!

MC 本日のゲスト、中部博さん、宮智英之助さんでした。
   おふたりに盛大な拍手をお贈りください。
   ありがとうございました!